この2つのバランスが現代のデジタルゲームの中心的課題であることは言うまでもない。 最近の特に大型ゲームにおける違和感は、あまりに後者のゲームプレイに還元されない情報が多すぎるという点にある。特に80年代、90年代のデジタルゲームを通して、或いはテーブルゲームを通じてゲーム内のあらゆる情報を駆使して、ゲームプレイを行う習慣を身に着けてしまったプレイヤーは、ゲームプレイに反映されない情報が膨大にあることに、たいへんな違和感を感じずにはいられない。
ところが00年代のゲームプレイヤーはむしろ、こういった膨大な情報をうまく捨象して、ゲームプレイを行うことに違和感を感じない。 00年代のプレイスタイルとは、皮肉なことに、美麗なグラフィックを当然として、そこからうまくプレイに必要な情報のみを取り出すというスタイルなのである。しかし、こういった能力はある種の訓練、嗜好などが必要なものであって、一般にゲーマーと言われる人以外の、普段ゲームをしていない人間がプレイする場合、どれが一体ゲームに必要な情報なのかが、すぐにわからない、また、それをようやく抜き出しても、その情報自身が既に膨大である、という事態に直面するのである。
こう行った方向に対して、この問題を回避して登場したのが、インディーゲーム、ソーシャルゲーム、WEBゲーム、携帯ゲームといったカジュアルゲーム(小さくて軽いゲーム)である。こういったゲームの情報は、ゲーム自身が持つ情報が非常に小さく抑えられていると同時に、先に述べた、ゲームプレイに必要な情報と、ゲーム世界を演出する情報量のバランスが、緩和されているという点である。ユーザーは一目で何をしてよいかがわかる。一方で、プレイ自体が単調であるという欠点もある。しかし、大型ゲームで、美麗グラフィックであるのに、プレイが単調であるよりは、ましかもしれない。
このように、プレイヤーのアクションに還元される情報と、プレイヤーが認識を形成するゲーム世界に還元される情報、及び、そのバランスは、年代と共に激しい変化を持つと同時に、そのバランスの崩れはプレイヤーにある種のストレスを及ぼす原因であり、そのストレスこそは、近年のカジュアルゲームに加速を促す一つの要因となっているのである。
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問題はバランスであって、単に膨大な情報があるという点ではない。大型ゲームの未来は、この視点から2つ考えられる。
@ 新しいユーザー・エクスペリエンスを目指す
A バランスを取りながら、情報を増やして行く
Aは、これまでの路線の延長でありながら、ゲーム世界をプレイアビリティーに対してリッチにする方向である。見ることは出来るが意味はない、という情報を軽減し、世界の見かけとプレイアビリティを近づける方向に開発を進める方向である。
例えば、テクスチャは単なる模様である。だが、本来、物体の表面の材質を示すテクスチャが貼られているオブジェクトには物理的な意味が付与されている方がリアルである。そういったプレイアビリティとしてのリッチさというものを、追及して行く方向、綺麗なハリボテから、よりプレイアビリティとしての性質を持つオブジェクトに満ちたリッチな世界へ向かってゲームを開発する、という方向である。
こういった世界には、全てではないが、プロシージャル技術が一つの助けとなるだろう。例えば、Far Cry2 では、草原を焼くことが出来る。そして、炎が燃え広がる。草原は普通のゲームでは単なる飾りだが、プロシージャル技術を使えば、プレイヤーが干渉できる素材としてゲームプレイの平面に現れて来ることが出来るのである。Half Life(2)の物理, Fallout3 の世界設計も、こういった方向の軸線上にある。
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逆に言えば、そういった違和感を払拭する方向、プレイアビリティとしてのリアルさを追及する方向は、今後10年の大型ゲームに新しい仕事を与えるものである。物理、プロシージャルを軸に、ゲーム内オブジェクトに対して、様々なユーザープレイを丁寧に構築して行くことは、新しいゲームの可能性を拓くだろう。