2009年08月29日

意識の構成と一つの人工知能の作り方について

精神のバランスが崩れ、抑圧されていた情動が解き放たれ乱動し、
精神の内を混乱している人間にとって、
夕方より朝、或いは眠りの中がつらいことが知られている。
これは、日常では意識によって調停されている様々な情動が、
その管理が弱まる眠り、或いは、眠りを経た朝は、
解放された情動が心理の上をのたうちまわり、
その人の自我に危機をもたらすからである。

意識はこのように、人間の精神のうちにある様々な情動を抑制し、
それらを調停する役割を担っているのである。
もし、意識がなければ、また、意識に準じる情動の調整力がなければ、
あらゆる情動が溶け合って、パニックに陥ってしまうだろう。
実際、人間がパニックに陥っている状況とは、そういう状況である。

意識は、情動が混在し、普段からコンフリクトしないように、
情動の集合を分断する機能を持たされている。逆に言えば、
意識とは、いろいろな衝動・欲動が衝突しないで済むように、
人間の精神のうちで準備され形成された中立地帯なのである。

それは、生物が進化の途上で、身体の複雑度を増すと同時に、
身体から精神にフィードバックされる多数の情動を持つという状況の中で、
自然とそれらを調停する機関として意識が創発された可能性さえ示唆している。

consious_ness.JPG

であるからこそ、意識の「へり」は全て欲動の境界によって形成されており、。
その境界を通して、意識は欲動を操作し行動を行なうことが出来る。

意識は空であり、唯一、直接的な行為と結び付いていないものであるからこそ、
あらゆる行為と結び付く衝動たちの調整機関としての役割を持つことが出来るのである。
意識自身には現実で行使し得る何の力もない。
意識の力は、それに連なるあらゆる衝動を通じて発効されるものである。
意識はその状況における複数の衝動を調停し、選択し、許可を与えることで、
行為を産み出す機関なのである。

このような立場に立つ知性の作り方の一つの方法は、
意識に対して、意識以外の全てのものが、身体、精神が
意識に行為の提案(=意識の「へり」に対する抑圧)を行い、
中立機関たる意識が、そういった提案を組み合わせ、調停することで、
個々に提案された以上の行為の連続を産み出すという方法である。

実際、人の不安は、意識と「へり」、衝動の境界と意識が重なる部分で
引き起こされる。それは一つの衝動が意識を抑圧する力であり、であると同時に、
その衝動を起因する原因が重要であることを意識に知らしめる役割を持つ。
それが人間にとっての不安の役割である。

とすると、意識というのはやはり、悩むべく作られた機関であって、
我々が、そこから解き放たれることはないだろう。逆に言えば、
だからこそ、日々、悩み、苦しみ、決断することは、
我々が意識的存在であることの証拠であり、
知性を持つものの宿命であり、意識そのものの本来的性質であると言える。

意識は確かに実効力からすれば空であるが、
その中には、複数の衝動の力学系から平衡点を見出す力が内在しており、
その力ゆえに、困難な状況でも決断し実践し打破する力を持つ。
それは知性が持つ存在の根源的強さであり、
その決断は意識の「へり」を通じて衝動を操作し、身体を以って行動となすことで
あらゆる抑圧の苦しみの包囲を自我の中心から湧き上がる力で跳ね返し、
精神を解放の歓びへ導く人間の根源的な力なのである。

posted by miyayou at 03:20| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
これを書いたあとに、K.ローレンツの著作「攻撃」の第六章「本能の大会議」を読んだのですが、より深い考察が為されています。つまり、動物の持つ様々な本能は、その種類によって、他の本能に従属したり、或いは、支配したり、そういった関係性があると同時に、そういった関係も状況によっては変化する、と書かれています。実際、こういった関係を実装するとなると、数個のパターンでも、面白い結果が得られるかもしれません。
Posted by y_miyake at 2009年08月30日 00:13
私はこの業界を知らない者ですが、大変面白く拝見させていただきました。人間が『仲間を見つけた』と錯覚し得るような人工知能を構築しようとする場合には特に、意識の構成を定義づけることは意味深いのでは…と思いました。私が考えるに、人間は生まれた時から『生きたい、欲求を満たしたい、幸せになりたい』という本能(欲望)を持っており、これが満たされない時に苦しみ、また一時的に満たしてもこれに果てがない事に苦しんでおり、すべての悩みは我々がいつか死なねばならない事に起因しているのではないでしょうか。この恐怖の根源は意識によるコントロールで衝動、情動、欲動にすり替えるられ、目隠しされていて(明日突然死ぬかもと本気で思って生活してる人はあまりいないでしょう)人間は精神のバランスをとっていると考える時、人工知能にも生命や社会的関わりへの欲求、死に対する恐怖のへのバランス等がなし得るのかどうかが、人間臭さのある人工知能へのカギになるような気がします。いつか人工知能にもヒトを理解できるかも、なんて思いました。まぁ、そうでなくても、『肩の上に乗った鳥さんのロボットが、面倒なおしゃべりを代行してくれる(星新一さんの作品、小学校の時、少しハマって読んでおられましたね)』だけでも充分すごいですが。そして、ネットで検索しただけで、ヒットしちゃう、miyayouさんもすごいですね(ビックリしました)。これからのご活躍もお祈りしています。がんばって下さい。
Posted by mama at 2009年08月30日 12:11
mama さん、ありがとうございます。僕が星新一を耽読していたことを知っていらっしゃるということは、とても親しい友人(か先生!)だった方ですね。(また、mixi の方でもメッセージください。)夏の終わりに、思いがけず懐かしいメッセージが届いて嬉しい限りです。

おっしゃる通り、人間くさいAIを作るには、本能のコンフリクトする機能を入れる必要があるでしょう。それが、我々の行動に揺らぎと多様性を与えることは、間違いありません。ただ、そのコンフリクトの仕方をどう入れるか、というところが、課題かと思います。一般のAI技術は、知能の部分的な機能をエレガントなアルゴリズムとして入れるために、総合的なAIと言う意味では、まだまだ不完全です。知能は混沌としていると同時に多様であり、多様であると同時に奥深くないといけません。

星新一の描くAIは、いつも人間の奥深い苦しみのところは、うまくスルーする能天気なAIで、逆にそれがとても明るくて面白くてユーモアに溢れていましたね。

逆に、神林長平の描くAIは、とても非人間的なくせに、人間の深い欲望まで探ろうとする、ディープで、ドライで、少し暗い感じに描かれています。

AIは、紆余曲折を経て少しずつ人間に近付く。ということは、3000年後ぐらいには、どんなAIが出来ているか楽しみです。

ただゲームAIの場合は、来年出荷するゲームに備えて、今ある知識と技術を総動員して、とりあえず、総合的なAIを作る必要があります。ただ、そういった全体としてのAIを作る、というところが、ゲーム特有であったりします。
Posted by y_miyake at 2009年08月30日 19:23
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