僕は多くのものをヴォルター・ベンヤミンに学んだ。
大学に入った頃、僕はベンヤミンをむさぼるように読んだものだった。
しかし、なお僕は彼をその数分の一も理解しているとは言えない。
彼の著作は、なお自分の途上にあって、読まれることを待っている、
そんな気がする。
* * *
都市を歩くことは、
単に空間を横切っていくことではなく、
我々、人間にとっては、
我々の記憶と都市の持つ記憶という、
もう一つの時間軸を加えた、
空間と時間の中を旅することでもある。
東京を歩きながら、僕は僕自身が移動するということのほかに、
僕自身がかつてそこを歩いたという記憶、或いは、
東京という都市自身が体験したかつての記憶を想起する。
そして、遠い向こう、ネオンの点滅する夜の下に
東京という街を捉えるとき、
僕はこの街が見ている夢を身をもって掬う。
この街は夢を見続けているのだ。
我々が活発な意識の下に無意識の広大な土地を持っているように、
東京という街は地上にせわしない動きと建築を展開しながらも、
その地下深く、使われなくなった水路や、パイプラインよりなお深い
地下の暗闇の底で、東京という夢を見続けている。
そこでは都市という大きな存在が、昼には目をつぶり、夜には目を開きながら、
壮大な夢を見続けているのだ。
僕はこの街を歩きながら、そんな夢の一端を共に垣間見る。
僕は街を巡りながら、画家が山河を巡りスケッチを集めるように、
物語のカケラを書き留め続ける。
それは、やがて幾つかの作品として結実する。
ふとした昼間の見知らぬ駅の暗い路地の向こう側、
坂道の向こうに真昼の光に照りかえる新宿や、
夕闇に捕らわれる丸の内のビル街や、
そんな何気ない風景の向こうに、
確かに物語が息づいているのを感じるのだ。
手をかざしてふっと息を引き込むとき、
僕はこの全身に、そんな物語がすっと入ってくるのを感じるのだ。
物語は都市と無縁ではない。
都市という装置は、それが単にオフィスや居住という機能を超えて、
我々の意識を結び合わせ、風景を共有させ、思想を進化させ続ける。
そして、いつしか都市全体が深く夢見る物語は、
そこで生きる人の無意識の中に染み込み、物語として表現される日を待つことになる。
都市はその全身をもって物語を育む装置でもある。
大学に入った頃、僕はベンヤミンをむさぼるように読んだものだった。
しかし、なお僕は彼をその数分の一も理解しているとは言えない。
彼の著作は、なお自分の途上にあって、読まれることを待っている、
そんな気がする。
* * *
都市を歩くことは、
単に空間を横切っていくことではなく、
我々、人間にとっては、
我々の記憶と都市の持つ記憶という、
もう一つの時間軸を加えた、
空間と時間の中を旅することでもある。
東京を歩きながら、僕は僕自身が移動するということのほかに、
僕自身がかつてそこを歩いたという記憶、或いは、
東京という都市自身が体験したかつての記憶を想起する。
そして、遠い向こう、ネオンの点滅する夜の下に
東京という街を捉えるとき、
僕はこの街が見ている夢を身をもって掬う。
この街は夢を見続けているのだ。
我々が活発な意識の下に無意識の広大な土地を持っているように、
東京という街は地上にせわしない動きと建築を展開しながらも、
その地下深く、使われなくなった水路や、パイプラインよりなお深い
地下の暗闇の底で、東京という夢を見続けている。
そこでは都市という大きな存在が、昼には目をつぶり、夜には目を開きながら、
壮大な夢を見続けているのだ。
僕はこの街を歩きながら、そんな夢の一端を共に垣間見る。
僕は街を巡りながら、画家が山河を巡りスケッチを集めるように、
物語のカケラを書き留め続ける。
それは、やがて幾つかの作品として結実する。
ふとした昼間の見知らぬ駅の暗い路地の向こう側、
坂道の向こうに真昼の光に照りかえる新宿や、
夕闇に捕らわれる丸の内のビル街や、
そんな何気ない風景の向こうに、
確かに物語が息づいているのを感じるのだ。
手をかざしてふっと息を引き込むとき、
僕はこの全身に、そんな物語がすっと入ってくるのを感じるのだ。
物語は都市と無縁ではない。
都市という装置は、それが単にオフィスや居住という機能を超えて、
我々の意識を結び合わせ、風景を共有させ、思想を進化させ続ける。
そして、いつしか都市全体が深く夢見る物語は、
そこで生きる人の無意識の中に染み込み、物語として表現される日を待つことになる。
都市はその全身をもって物語を育む装置でもある。